月別アーカイブ: 2022年12月

唐戸散策

下関はもちろん、北九州の食のプロも通う卸売市場

 

一般の人も食材を安く手に入れることができるそうです、少しだけ散策

 

関門汽船桟橋はおおむね20分間隔で出発、関門海峡を渡る所要時間は約5分だそうですが、
この日はずいぶん長い時間をかけて徒歩で門司港からここまで来ました

 

「海響館」 市立下関水族館 立ち寄りたかったですが通過でした

 

水族館のお隣にあるのは、はい!からっと横丁 アミューズメントパーク、大観覧車から
関門海峡が一望できるでしょうが、残念ながらこちらも通過しました

 

やっと下関駅に到着です、かわいい提灯はやっぱりフグです!
ここから電車で小倉に戻りました。

 

唐戸エリアには、日本遺産の旧秋田商会ビルや旧下関英国領事館、下関南部町郵便局など
日本遺産の建物がいろいろありましたが、あまりに疲れて写真を撮る元気もなかったです。

この日は小倉から出発して、門司港見物、徒歩で和布刈公園を登り、展望台から関門海峡を
眺めて、関門トンネル人道を歩いて下関側入り口を出て壇ノ浦の合戦の跡、赤間神宮がある
唐戸の町を散策したあと下関駅から小倉に戻りました、残念ながら歩数は覚えていませんが
2万歩近くになっていたように思います。

下関駅近くの観光センターで、関門トンネル人道を歩いて渡った記念のカードを頂きました。

 

(12月10日)

 

本年は今日で終わります。
ご覧いただき有難うございました。

 

唐戸「赤間神宮」

関門海峡を隔て門司港から遠くに見えた赤間神宮にお参りしました
源平壇ノ浦の合戦に敗れ。わずか8歳で関門海峡に入水された平清盛の孫である安徳天皇を
祀っています

対岸から見た時印象的だったこの赤い水天門は、鮮やかな竜宮造りで国登録有形文化財

「海の中にも都はある」という二位の尼の願いを映したものと言われます

 

境内には平家の武将たちを祀った「七盛塚」や、平家の幽霊たちに壇ノ浦の合戦の哀しい
物語を琵琶を奏でながら語った「耳なし芳一」の像などがある広い境内ですが、今回は
残念ながら奥までお参りできませんでした。

水天門を境内から見ると、海も見えて、本当に竜宮城を想像します

 

安徳天皇の御陵もあり、皇室の方が下関をご訪問される折には必ずお参りされるようです

 

下関最大のお祭りは、平家の女官たちが遊郭に身を落としながらも、年に一度安徳天皇の
命日に連れ立ってお参りしたことかが起源とされる「先帝祭」です。

そのメインイベントが5月3日の「上臈道中」。まさに上記のお祭りの光景を表したもので
昔の遊郭があったとされる場所から神社までを、十二単に打掛を付けた5人の花魁が町中を
練り歩きます、外八文字を踏む艶やかな姿を見に多くの参拝者で賑わうそうです。

「関門トンネル人道」

和布刈(めかり)公園展望台から下りると、和布刈神社の前に着きました

 

九州の最北端に鎮座する神社で、関門海峡に面して社殿が立ちます

 

創建から今日に至るまで、和布刈神社の神さまはこの地で関門海峡を見守り続けています

 

大きな鳥居の前に

 

関門トンネル人道入り口がありました、エレベーターでかなり下ります

 

関門橋のすぐ近くに位置しています、九州と本州が最短の場所でしょうね

 

下関に向かいます

 

国道2号線です

 

トンネルはこんな構造になっています

 

先まで見えませんが、上り坂があるようです

 

門司から歩き始めて280m、このあと中間点に気づかず過ぎてしまったようです、両側の壁は
海中のように描かれて魚が泳いでいるところもありました

 

下関側に到着、振り向いたところです

 

15分ぐらい歩いたでしょうか、下関に着きました

 

門司側入り口で、スタンプを半分押して、下関に着いたところでもう半分押して、あとで
下関駅観光センターで関門トンネル人道踏破の証明証がもらえます

 

下関側のトンネル入り口です、ここは本州山口県です、九州から本州に歩いて渡ったわけです

 

白い建物が門司トンネル入り口です、鳥居も見えますね、後ろは和布刈り公園の山です

 

源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦に面しています

 

長州砲が関門海峡を通過する外国船に睨みをきかせていました

 

御裳川(みもすそがわ)バス停  唐戸、下関方バス乗り場です

 

こちら側から見る関門橋は違う感じがします

 

橋の下から少し行ったところに、山側にへばりつくように、傾斜を生かした
立石神社という小さな神社がありました、平家が西に下ったとき伏見稲荷の
分霊をここに祀ったといわれています

境内には平家の無縁の供養塔があるようです

鳥居から真っすぐの所にこんな石が置かれてありました、烏帽子岩というそうでこれが
立石神社の御神体と言われています。

毎年12月10日にここから近い赤間神宮の神官と漁業関係者などで、航海安全と豊漁を祈願して
重さ20㎏の注連縄を新しいものに替えお祓いをする「関の注連縄祭り」が行われるようです。

1184年の屋島の合戦で敗れた平家は下関市の彦島へ敗走したものの、現在立石稲荷神社がある
目の前の海峡で軍船が沈没し、御神体はこの地にとどまり海峡の守護神となったと言われて
いるそうです。

帰宅してから調べたのですが、この日がちょうど10日でした、注連縄が真新しいと思いました
が、替えたその日だったようです。
それにしても20㎏もの注連縄とは思いませんでした。

 

 

和布刈(めかり)公園の展望台

古城山麓の和布刈神社(めかりじんじゃ)の鳥居と思いますが、
残念ながら横から見たので気が付かなかった、大きい鳥居でした

 

和布刈公園の古城山(こじょうさん)から橋を見ようと登ることにしました

 

かつて平知盛が源氏との合戦に備えて築城されたと伝わる門司城が築かれていたそうです

 

上り坂がきつくて展望台に着いた時はくたくたでしたが、この景色を見たら癒されました

 

関門海峡は船の往来が多いです、私たちもフェリーでここを通ったはずですが夜だったので
全く気づかずちょっと残念でした

 

第二展望台です

 

少し奥にあるので景色がちょっと変わる感じでした

 

白い部分はもしかして渦潮だったのでしょうか、それとも船が通った後かしら?

 

壁画は1400枚もの有田焼の陶板で作られているそうです

 

眼下に門司の町が広がっている感じ、巌流島も見えていたはずですね

 

本州がわずか700mの距離に迫る関門海峡です

 

こんな角度で関門橋を見られるとは思いませんでした

 

壇ノ浦源平古戦場はまた後で紹介しましょう

 

関門橋を下から見た景色もすごい迫力でした!

 

雄大な景色に圧倒されて疲れを忘れましたが、この日の歩数はこの後
とんでもない数字になりました。

門司港散策

フェリーで到着した翌朝小倉駅から出発したのは

 

門司港駅、15分ほどでしょうか、すぐでした

 

門司港駅に着く少し手前でこのフェリーを見かけて駅からすぐ向かいました
寄港地ではないので息子が気になったようです

 

海沿いを門司港レトロな場所あたりに向けて戻っている時、白い関門橋が青空と青い海に映えて
すごくきれいでした

 

週末の午前中だったので海沿いに釣りを楽しむ人がたくさん見かけました

 

対岸は下関の町です、赤い竜宮城のような建物は赤間神社でこのあと立ち寄りましたが、
関門橋を渡ったのでなく、船でもなく山口県下関に渡りました、その方法は後程、、、

 

遊覧船乗り場でした、有名な巌流島は小さな島で場所によっては見えてました

 

ブルーウイングもじ(はね橋) 全長108m、日本最大の歩行者専用はね橋、1日6回跳ね上がる
そうです、ちょうど上がった橋が戻るところだったので、待っていた大勢の歩行者たちと一緒に
渡りました

旧門司税関  昭和初期まで税関庁舎として使われていた明治45年築の洋館

門司港駅は写真撮る間もなく電車から見えたフェリーが気になったようで歩き出してしまい
レトロな駅舎など写真に収められなかったのは残念でした

以前に一人で来たことがあり、全体の感じは覚えています。福岡空港から、ここ門司港まで
来て半日ぐらいゆっくり過ごした懐かしい所です

 

バナナのたたき売り発祥の地だったようで、前回は実際に駅前の広場で売ってました
同じ黄色でも高千穂峡で見かけたポストとは色が違います、こちらはバナナ色でしょうか、、

 

橋がだんだん近づいてきました

 

海沿いを歩いていると、かわいい観光電車に出会いました、ここが駅のようです。

 

レトロな門司港駅からの散策はすぐ終わり、徒歩で向かった次の目的地は思いがけない所
でした。

 

(12月10日)

フェリーの旅

12月8日  出港は23時45分いつもならとっくに夢の中の時間ですが、横浜に住む息子夫婦の
家から今回も3人で横須賀のフェリー港に向かいました

 

手続きを終えてラウンジへ、出港までまだ時間がありましたが、普段早寝の私もさすがに眠く
なることはなく少し緊張して乗船を待ちました

無事出港

新門司港に到着予定は翌日21時、1昼夜をフェリーで過ごすわけです

 

フェリーの旅は10年~15年前に、大洗から北海道苫小牧に行った時以来2度目です

 

ロビーは広く、レストラン、カフェなどはもちろん、大きな浴場に露天風呂までありました、
船の規模が違いますが、壱岐、対馬に出かけた時のような揺れもなく、快適な旅でした

 

甲板にも出られます

 

11時ごろ横須賀に向かうフェリーとすれ違うとアナウンスがあり、甲板に出てみたのです

 

同じ会社の船ですからお互いに汽笛を鳴らし、遠ざかっていきました、場所がどのあたり
だったかはわかりませんでした、ずっと陸が見えていましたから、瀬戸内海あたりだった
のかもしれません。

新門司港到着は予定通り21時頃でした、小倉駅までバスが出ていて、門司駅により
小倉まで30分ほどかかったでしょうか、ホテルに着くとさすがにほっとしました。

(12月8日~9日)

対馬港から福岡へ

宿泊したホテル近くで見かけた小さな神社は池神社という名前でした

 

フェリー港に向かう途中の対馬名物”かすまき”のお店、残念ながら日持ちがしないので
お土産用には買えませんでした。

(かすまきは朝鮮使節団のために作られたお菓子と書かれたのを読んだ記憶があります)

こしあんをカステラ風の生地で巻いたお菓子です

* 後日、日本橋に出かけた時にアンテナショップ長崎館に寄ってみましたが”かすまき”は
対馬産でなくて、大きくて周りに砂糖をまぶした確か五島産の1種類しかなかったです

 

厳原港国内フェリーターミナル

 

フェリーが到着

 

15時25分発です

 

行きは壱岐で途中下船したので、帰りは福岡まで約倍の時間5時間近くかかります

 

2時間ほどで壱岐に到着、乗客が乗るとすぐ出発でした

 

結構揺れましたが、横になって音楽を聴いていたせいか、全く酔わないですみました

 

福岡着は定刻の20時過ぎ、この日は博多泊、翌日夕方の空路で戻る1週間の旅でした

出かけ難いと思っていた長崎県壱岐と対馬の旅、息子夫婦の計画で出かけられました。

 

(11月22日)

「厳原八幡宮神社」

八幡神社に向かう途中で湯島天神社の鳥居を見かけなんだか親近感を
感じ通りがけに鳥居だけ撮りました、全国にあるのでしょうか。

 

こちらは厳原八幡宮神社

 

天武天皇の命により清水山の山麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝わります

 

神門前の紅葉がきれいでした

 

神門

 

本殿

 

境内天神神社

 

境内宇努刀神社

 

八幡宮は身近なので、なんだか親しみを感じたお参りでした。

「清水山城跡」

文禄慶長の役(朝鮮出兵)に際し、秀吉の命により1591年に築かれたとされる山城です。

 

博物館裏手の住宅地で案内を見かけて登ってみました、ようやく三の丸に到着、300m先の
二の丸まで行く元気はありません

 

二の丸に向かう道は緩やかに見えますが、ここに到着する道は急斜面で、階段も細く厳しく
登山口で杖になるような棒が置かれていたので借りてよかった、階段の段差が大きく、
帰り道助かりました

 

でも三の丸から厳原の町や厳原港が一望出来ました

 

トレッキングコースでもあるようです、あとで知りました。

 

二の丸、一の丸(本丸)からは気象条件が良ければ沖ノ島や、壱岐島が見えることも
あるそうです。

疲れましたが、厳原の町が一望できたのは思いがけなかったです。

厳原散策(いづはら)散策

「城下町厳原」 厳原には7世紀から対馬国国府がおかれ、行政・文化の中心地として
栄えました。
藩政時代は府中とも呼ばれ、明治維新後に厳原と改称されました。

 

厳原はフェリーで到着した対馬で一番賑やかな町でした、散策をしていたらこんな絵のバスを
見かけました、対州馬とツシマヤマネコはやはり人気ですね

 

金石城入り口  金石城(かねいしじょう)の東端部で、城内への入り口として重要な場所の
ようで、現在は博物館です

 

 

二人は博物館へ、私は一人で別の目的地に向かいます

 

1665年対馬藩三代藩主が城郭整備を行い、1669年櫓門を築いてからは
金石城と呼ばれるようになりました

 

文化年間に火災で焼失、再建されましたが、大正時代に再び解体
平成2年に記録に基づいて再現された3代目の櫓門だそうです

 

旧金石城庭園  宗家の居城であた金石城の庭園です、長年土砂に埋もれた状態でしたが、
発掘調査・復元工事の結果、近世庭園としては希少な意匠・構造を持ち、構造の状態も
良好であることから、国の名勝にしてされました

2008年5月から一般公開されているそうです、趣の違う庭園でした

 

目的地「万松院」の山門が見てきました、2代藩主宗義成が父義智の冥福を祈って1615年に
建立し、宗家の菩提寺として特別の崇敬を受けてきました

 

徳川歴代将軍の位牌も安置されています

 

朝鮮国王から送られた三具足なども飾れていました

 

百雁木(ひゃくがんぎ=132段の石段)を登ると、歴代藩主の壮大な
墓所(御霊屋)があるようですが、怖いような静けさでした

 

桃山様式の山門です

対馬の藩主・宗家の格式は10万石で、その高さが菩提寺である万松院にしのばれます。

外交・文化使節団「朝鮮通信使」は府中を経て、対馬藩の先導・護衛のもと瀬戸内海を航海し
江戸に向かいました。
対馬は大陸との文化、貿易の窓口として栄え、韓国釜山には対馬藩士など600人が知財する
「草梁萎館」が置かれるなど、独自の外交機能を発揮していました。

 

万松院を後に待ち合わせ場所の博物館に向かいました。

 

 

対馬博物館では特別展「朝鮮通信使」を見ました。

朝鮮使節団の行列の賑わいや、思いがけない交流など知りました。

 

厳原の町見物は続きます。