しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

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よみがえる「正倉院宝物」

六本木のサントリー美術館で開催中の展覧会を見に出かけました

 

「1300年の技が今ここに、よみがえる」正倉院宝物の再現模造にみる
天平の技、正倉院宝物とは、奈良東大寺の正倉に伝えられた約9千件に
及ぶ品々です。

多くが奈良時代の作で、西域や唐代の作で、西域や唐代の中国のから
もたらされた国際色豊かな品々も含まれます。

模造 螺鈿紫檀五絃琵琶 一面

正倉院宝物の模造製作は、明治時代に奈良で開催された博覧会を期に
始まりました

宝物の修理も手がけた名工たちによる模造製作はその後材料や技法、
構造の忠実は再現を目指すことになります

 

平成最後の年に8年がかりで完成した「模造 螺鈿紫檀五絃琵琶」
主材は稀少材の紫檀です、乾燥による歪みが生じないように養生期間を
設けながら段階的に加工するそうです、装飾には夜光貝による螺鈿や、
現在では輸入している玳瑁が用いられています

 

様々な素材や技法が複合的に用いられているため、
多くの作り手が連携する必要があり、完成までに
8年もの年月を費やしました

模造 酔胡王面

大仏開眼会の際に演じられた伎楽の面や衣装などの
模造も展示されていました

模造 黄銅合子 一合

およそ1300年の時を経て、正倉院宝物の製作当初の
鮮やかな姿が現代の名工たちの技によってよみがえりました

模造 七条織成樹皮色袈裟 一領 株式会社龍村美術織物

模造 螺鈿箱 一合

 

再現模造の逸品を一堂に集めて公開するのはおよそ20年ぶりだそうです

人間国宝ら伝統技術保持者の熟練の技に触れる展覧会です。

明治・大正・昭和・平成と続き今日にいたる再現模造事業では、継承さ
れた伝統に加え、CTスキャンなどの最新の技術が融合することにより、
内部構造までも再現した逸品が次々と製作されています。

毎年奈良博物館で11月に紹介される正倉院宝物、何回か列に並んで
見たこともありました、いつも大変が行列ができていました。

今回サントリー美術館でゆっくり鑑賞出来ました。

 

(3月7日)

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「江戸東京博物館」

映画「HOKUSAI」を見てから久しぶりに江戸時代の生活状況など見たくなり久しぶりに
「江戸東京博物館」のホームページを見ていたら来年4月から3年間も改装で休館という
事を知り早速出かけました。

開館したばかりの時間だったので見学者も少なかったのですが、こちらの二人は外国人で
取材のようでした、まず日本橋から出発のようでした。

「寛永の町人地」江戸初期、日本橋北詰付近の町人地です。「寛永の大名屋敷」松平忠昌の
上屋敷とほぼ同じ面積を復元したもの、敷地が広く多くの建物が建っていた大名屋敷に比べ
町人の家は一戸が極めて狭かった。

でも楽しそうな様子がうかがえます

 

「寛永の大名屋敷」 江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平伊予守忠昌の
上屋敷である。広大な敷地に桃山風の豪壮な建物が建っていたが、明暦の大火により焼失し、
以後このような華麗な大名屋敷は姿を消した。

幕末の江戸城  江戸城の中心部です内堀の囲まれ内郭は本丸。二の丸・西丸・吹上御所
などから構成される

 

「東都高輪風景」 文久3年(1863)3月 東海道を江戸に向けて進む、参勤交代の大名行列を
描いた錦絵。
行列の右手には海が広がり、左手には高輪の丘陵が迫る。現在の品川周辺を描写したもの。
長く続く大名行列が周辺の人々に権威をはなっていた光景を伝える。

「蒔絵女乗り物」 江戸時代中期  蒔絵から酒井家にかかわる女乗り物と思われる。

 

 

こちらは庶民の棟割長屋、長屋はひとつの棟を数戸に区切った住居で仕切りの壁のほとんどが
木と紙からなる木造建築で、火事にもろかった、江戸の約2割に当たる狭い地域に多くの庶民が
部屋を借りて暮らしていた、代表的なものに「九尺二間の裏長屋」がある。
間口九尺(約2,7m)奥行二間(約3,6m)約3坪の広さで、居間は4,5畳あった。

 

復元した棟割長屋は九尺二間の部屋が3戸と間口2間、奥行2間の広さに居間が6畳の部屋が
2戸で、いずれの部屋も、戸口を入ると台所兼用の土間があり、置き竈や水がめが置かれている
部屋には押入れはなく、衣類などは行李(こおり)という入れ物に衣類などを収納し、布団と
一緒に片隅に片づけて生活スペースをあけました。

指物師の部屋

お産の風俗 棒手振り商人の家のお産

洗い張り 洗い張りは着物の縫い目をほどいて洗い、しわを伸ばして乾かすことを言う。
江戸前期には専業の洗い張り屋が登場した。

「寺子屋師匠」 江戸期に普及した、寺院における子弟教育から始まったことから寺子屋の
名称が残ったと考えられる。

「上水井戸の構造」 江戸市中には上水を流す樋が道路下に埋設され水を供給していた。
長屋に設けられた上水井戸を通して人々のもとに届けられた。
上水井戸は、地中で底を抜いた桶をいくつか重ねて水をためておき、必要な時に竹竿の先に
取り付けた小さい桶で汲み上げる仕組みとなっている。

(左手の建物に立てかけてあるのが洗い張りして乾かしている板)

 

「一石橋迷子標」 迷子への対処のため、町人が資金を出し合って
設けたもの。
迷子や捨て子は親が見つかるまでの期間、それを発見した町の負担に
よって教育することが義務づけられていた。
そのためこのような石碑を立て「たずぬる方」には子供を探す親が我子の
特長などを記した札を貼り「しらする方」には迷子を保護した町から情報が貼られた。

 

「俳優見立夏商人 水売り」 水売りは夏季に限った商売で、水を
二つの手桶に入れて、天秤で担いで売り歩く。
売り声は「ひゃっこい、ひゃっこい」である、前の手桶には茶碗や
白玉を入れる屋台が見える。
冷たい水に白玉・白砂糖入りで一杯4文だったが、注文によっては
砂糖を増量して8文、12文で売った。

夜商内六夏選(麦湯売り) 夏の夜に見られた麦湯売りを描く見立絵
麦湯は現在の麦茶と同様のもので、「麦湯」と書かれた行燈を掲げ
屋台を出して売っていた。
冷蔵庫のない時代冷えてはいない、だか、夜風にあたりながら麦湯を
飲み、また涼しげな浴衣を着た看板娘が目にも涼をもたらした。

「日常の膳」 一、目刺し鰯  一、八杯豆腐  一、白飯  一、沢庵漬
「日用倹約料理仕方角力番付」をもとに作成したもの。

 

寿司屋の屋台 現在の寿司と比べると1貫が大きく赤酢を使用しているのでお米が赤っぽく
なっています、タネは江戸前の魚が多く、酢に浸したものを主に使用した。

 

江戸の町では店を構えず、町中での屋台で営業する商人も多く見られました。
扱う品物も食べ物・飲み物・日用品・嗜好品など多種多様でした。(二八そば屋)

 

「絵草紙屋」 「東海道名所図会」に描かれた和泉屋市兵衛の店(甘泉堂)をもとに
江戸の絵草紙屋の店先を復元した。
和泉屋市兵衛が店を構えていた芝神明前三島町(港区芝大門1丁目付近)は東海道の脇にあたり、
地本問屋が集中する区域のひとつであったが、出店時期は不明である。

「世の中五用心」 江戸の暮らす庶民が、日常生活で心がけておくべき
事柄として「身の用心」「戸締りの用心」「日の用心」「あつささむさの
用心」「おしり(お尻)の用心」の5つを取り上げている狂歌と挿絵を
楽しみつつ、教訓的な内容を学んだが、最後の「お尻」とは物事の最後の
意味で、ここから転じて大晦日の借金の期限のこと意味している。

年貢米を江戸に運ぶ船

 

「三井越後屋江戸本店」 江戸時代の代表的な呉服店で駿河町にあった「三井越後屋」の
店前を再現したもの。
創始者三井高利は伊勢松坂の出身、1673年京都に呉服の仕入れ店を設け、江戸の販売の店を
開いた。
模型で復元したのは「東見世」部分であり、さらに同程度の間口で「本見世」がある、
いかに三井越後屋が大きかったかがわかる。

賑わう店内を見ると、鴨井には手代の名を記した紙が吊るされその下で反物を出し、対面売りを
する手代の様子や湯茶のサービスなどを行っている子供などを見ることができる。

この販売方法は「店前売」といい、客は多くの反物を手に取ってみることができた。
それまでの商法では、商人が得意先に行って商品を渡し、あとで利息を付けた対価を受け取る
後払いであったが、新商法は店頭で現金販売とする代わりに利息をかけない。「現金懸値無し」
というものであった。

「神田明神行列」 神田祭の華やかで壮大な行列のありさまを当時の絵画資料をもとに
代表的な山車や神輿などを抜き出し復元した。

 

「両国橋西詰」 西詰の広小路には軽業や歌舞伎芝居を見せる見世物小屋、髪結い床、水茶屋
などがいくつも立ち並び、寿司、天ぷら、うなぎなどの屋台、西瓜売り、朝顔売り、などの
物売りや大道芸人も多く集まった。

夏の間は花火見物に興じる屋形船、屋根船、猪牙船が浮かびその間を物売りやウロ船や花火船が
行きかった。

天保の改革の取り締まりの記録をもとにして、改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して
再現したものです。

 

「芝居小屋」 歌舞伎は当初屋外で行われたが享保期ごろから客席を含めた全体を大きな屋根で
覆う形式の小屋が許可され、晴雨にかかわらず芝居を楽しむ劇場としての設備が整った。

「助六の舞台」 江戸歌舞伎の代表的な演目を、架空の場面設定で展示した。
助六は1713年に2代目市川團十郎の「助六由縁の江戸桜」の舞台

花魁 揚巻

 

中村座の前でも撮影が行われていました、出演者とカメラマンの二人だけですから
江戸東京博物館の説明だけなのでしょうか。
歩きながら話していましたが、残念ながらどこの国の言葉か分かりませんでした。

 

こちらは3階の出入り口、この屋上広場に休憩所があるのですが、こちらも入れませんでした。

 

この日は入館と同時に友人から電話があり、外出がしにくい日々なので彼女に合わせて
1時間半後にこちらから15分ほどで行ける眼鏡屋さんで落ち合うことにしました。
江戸時代以降のエリアはまたの機会に見物することにしました。

来春からの改装工事は思いがけないことで、開館からもう30年も過ぎるということにも
驚きました。
一時閉館までにまたゆっくり訪れたいと思いつつ江戸東京博物館を後にしました。

 

(7月6日)

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「すみだ北斎美術館」

映画「北斎」を見たら美術館にも行きたくなり出かけました。

 

墨田区は北斎ゆかりの地です

 

建物のいろいろな窓から見えます。

 

 

「北斎のアトリエ」です、84歳の頃、区内の榛馬場に娘の阿栄とともに住んでいました。
その様子を門人の露木伊逸が絵に残しています。
それを元に再現した模型だそうです。

 

北斎は炬燵に半分入りながら、熱心に絵を描き、阿栄はその様子を傍らで見守っています。
北斎を訪ねた人の話ではゴミが散らかっていても父娘は意に介さず、その中で平然と絵を
描いていたと伝わっています。

 

手の血管までわかります、本人がいるようですね、時々手が動き北斎が絵を描いている様子が
分かるようです。

 

この窓からも見えました

 

 

企画展をやってました

出かけて知った企画展でした

多くの作品が展示されていました

例えばこんな感じ  「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」

 

映像も見られます

 

しりあがり寿「飛沫瀧マスク」 (右)今や必需品のマスクを防水ウエアと合わせてみました、
むしろ花粉症に合うかも!  (左)浪裏&瀧廻りポンチョ 雨の季節、北斎の瀧をまとって
水も滴る何とやら。 という説明でした

長T 「distanceTシャツ」

 

等々

 

常設展で「北斎漫画」も見ましたが、なんだかあまり頭に入らなかった。

 

常設展は見たのですが、何となくこの日は「富嶽三十六景」にも気持ちが入らず、中途半端な
気持ちでの帰宅でした。

この日帰りに近くの「江戸東京博物館」にも立ち寄れたらと思っていたのですが、
日を改めることにして家に戻り、江戸時代のことを少し勉強した時の本など見直しました。

 

7月に六本木ミッドタウンで「浮世絵展」が開催されるようなので楽しみにしましょう。

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 特別展「国宝東寺-空海と仏像曼荼羅」

真言宗総本山の京都・東寺は平安京遷都に伴って建立されたのち、空海が真言密教の
根本道場とした。
空海が構想し講堂に安置された21体の仏像からなるのが「立体曼荼羅」今回は
最多15体がお目見えしました。
そしてほとんどが全方向から見られる展示でした。

早く出かけたいと思いながらようやく出かけられたのは5月27日、6月2日まででしたから
チケットは上野駅構内で購入しても「平成館」の入り口で30分待ちでの入場でした。

 

 

国宝 「兜跋毘沙門天立像」  中国 唐時代・8世紀

中国・唐時代に造られた、異色の毘沙門天像 腰が高い細身のスタイル
中央アジア風の甲が特色で、日本でも各地で模刻が造られるなど信仰を
集めた。平安京の羅城門に安置され、都を守護したと伝えられる。

重要文化財 「阿弥陀如来坐像」

空海が始めた最重要の法会「後七日御修法」の堂内の様子が再現して
紹介されていました、興味深かったです。

重要文化財 「五大虚空蔵菩薩坐像」 唐時代・9世紀

今回撮影が許された「帝釈天騎象像」

着甲し、武器である金剛杵(こんごうしょ)を手にする仏法の守護神

もとはバラモン教のインドラ神で、ブラマー神である梵天とともに
仏教に取り入れられ対で表されることが多い。

須弥壇の上では、西方に配置される。

ゆったりと象に乗る姿はインド風で、奈良時代までの帝釈天の表現とは
異なる、空海がもたらした新しい情報に基づいて造られたそうです。

今は蓮華の座に代わるが、五仏や五菩薩も当初は鳥獣の台座に座して
いた可能性がある。

前期と後期で展示の入れ替えがありましたが、見ごたえのある仏像を
ぐるっと回って全方向から見せていただけるのも魅力でした。

開場に入ると、イヤホンガイドを聞きながらゆっくり楽しめました。

 

あまりにも忙しく過ごしていたので、ほっとしたひと時でした。

素晴らしい「東寺展」に京都に出かけたい気持ちもますます強まります。

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京都「大法恩寺」展

上野公園は晩秋の色でした

噴水と花と博物館

最終日の前日でした

見事な銀杏の木です

楽しみに出かけました

右端は馬頭観音菩薩立像

”慶派スーパースター” 快慶、定慶、行快の名品が並びました

運慶の弟子・定慶作重要文化財に指定された唯一の六観音さまです

会期中の後半はこちらの「六観音菩薩像」の光背が外されたのです
ぐるっと後ろ姿まで見せていただけて、なんだかいつもにもまして
六観音さまたちが身近に感じられました

こちらは快慶作釈迦の10人の弟子「十大弟子立像」の三象ですが、
例えば優婆離は持律第一 基本に忠実、戒律を守ることが重要です

阿那律は天眼第一 眼は見えませんが心の眼で見通せます

迦旋延は論議第一 教団きっての理論家で問答が得意です

十大弟子立像、10体揃って寺外初公開なのだそうです

京都の「大報恩寺」ご本尊の釈迦如来坐像は快慶の一番弟子、行快の代表作のひとつです
須弥壇に安置されているご本尊は秘仏で、年4回ほどの公開だとか、こちらも寺外初公開です

千本釈迦堂の名で親しまれる「大報恩寺」は鎌倉時代の1220年に
義空上人が開創した古刹です

千本釈迦堂の名前の由来は、秘仏ご本尊「釈迦如来坐像」が祀られる
本堂が、貴族から庶民まで幅広い信仰を集めた釈迦信仰の中心地であり
近くに京都を南北に縦断する千本通があることにもとづくようです。

寺内で、現在は別々に安置されている秘仏でご本尊「釈迦如来坐像」と
釈迦の10人の弟子「十大弟子立像」が同じ空間に展示されていました。

 

思いがけず写真撮影が許された仏像が1体ありました

聖観音菩薩立像です

光背が外された珍しいお姿

光背だけを見るのは不思議な感じです

その美しいお姿を多くの人が写真に収めていました

ぐるっと回れるのですが

前から写真を撮っている人が多いですから
後ろ姿を撮るときは少し遠慮して急いで
写したためか残念ながらほとんどブレて
しまいました。

 

ドーム屋根は表慶館、左側は本館

平成館を出ると何やら音がしていたので見ると大きなクレーンが
作動中で、西の空が淡いオレンジ色になっていました。

「大法恩寺」展に出かけられたのは展示最終日の前日でしたから
混雑を予想して午後から出かけました。

平成館を出たところの風景です。

何かと気ぜわしい年の暮れに、穏やかな心に残るひと時を過ごせました。

 

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江戸の七夕飾り

深川江戸資料館に七夕飾りを見に出かけました

大鵬関は名誉区民だそうです

導入展示室には松平定信、鶴屋南北など深川ゆかりの人物が紹介されています

この日の目的はこちら「江戸の七夕飾り」です

七夕飾りは思ったより大きくてびっくり

表通りの大店(おおだな) 多田屋  干鰯(ほしか)〆粕(肥料)魚油を扱う店

大店の土蔵のところに七夕飾り

大店向かいの八百屋さんの店先には夏野菜が並び

当時卵は高価だったようで今のお金で350円ぐらいだったとか、手前のかごには茗荷

隣のつき米屋は米問屋から仕入れて庶民に売っています

唐臼という器機で精米します

その先木戸のところにも大きな飾り

木木戸の稲荷鮓やさん

木戸を抜けると船宿が2軒 飲食や宴会もできる小料理屋のようなところ

猪牙舟(チョキ)を使って船頭が人や荷物を搬送します

火除け地と呼ばれる広場にも願い事や和歌を書いた短冊、商売繁盛を願った大福帳など、
様々なものをつけた飾りがありました

火の見櫓の前には二八そばの屋台

こちらは長屋 松次郎さんは船宿の船頭

洗濯物越しにも飾りが見えました

三味線の師匠  於し津さんの家の縁側には朝顔の鉢植え

こんな路地の雰囲気がいいですね

つき米屋の職人秀治さんは妻と小さな子供の3人暮らし

棒手振りの政助さんは、あさり、しじみのむき身を天秤棒で担いで売るのが仕事

長屋住民の共同スペースにも七夕飾りがありました

この路地の突き当りは大店、表通りは路地も少し広い

鳴き声も聞こえ動く屋根の上のネコちゃん

願いを叶えるために、屋根の上に天高く立てた色とりどりの笹竹が風になびいています。

短冊は青・赤・黄・白・黒(紫)の五色、これは中国の思想である五行説から。

商売繁盛や家の繁栄を願い、大福帳もつけてあります。

水と深くかかわるすいか・ひょうたんは雨乞い、豊作祈願などの意味も。

筆・硯は書道の上達を願うのだそうです。

 

 

七夕飾りは「名所江戸百景」に描かれた七夕の日の江戸の町並みを
参考に再現したものだそうです。

江戸時代の七夕飾りは大きくて願い事もいっぱいでした。

 

(7月7日)

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すみだ北斎美術館

両国の「すみだ北斎美術館」は昨年11月で開館1周年を迎えました。

1月まで開催されていた開館1周年記念展もにぎわっていました。

 

出かけた日も青空にスカイツリーが美しく映えていました

 

少し前の催しになりますが、紹介したいものがありました

開館1周年記念展は江戸時代の趣味人たちが新春に「摺物」と呼ばれる版画を
贈り合う習わしがあったそうです

北斎とその弟子たちも、神様をはじめとする多くのおめでたい図像を
描いています、北斎一門が手がけためでたい作品が展示されました

開館から1周年、まるごと福づくしのおめでたい北斎展です

 

北斎家の一間  前回紹介できなかった北斎の居間の再現です

 

北斎の筆を持つ手が時々動きます、リアルすぎて薄暗い部屋ですからちょっとドキッとします

 

娘のお栄(阿栄)(雅号は応為)晩年は北斎と起居を共にしていました。

父親譲りの画才で特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたとも
いわれる。
北斎は「美人画にかけては応為には敵わない」と語ったとも伝えられる。

「応為」の画号は、北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んだので、
そのまま号としたとも、逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と
大津絵節から取って呼んだからという説や、あるいは北斎の雅号の一つ
「為一」にあやかり、「為一に応ずる」に意を込めて「応為」と号した
とする説もあるそうです。

応為の性格は父の北斎に似る面が多く、やや慎みに欠いたという。
男のような気質で任侠風を好み、また衣食の貧しさを苦にすることは
なかったといわれる。

応為は北斎に似ていたが、ただ煙草と酒を好んだという。ある日、
北斎の描いていた絵の上にキセルからたばこの火種を落としたことがあり、
これを大変後悔して一旦禁煙したものの、しばらくしてまた元に戻って
しまったという。(北斎の弟子露木為一の証言による)

北斎親子は魅力的です。

 

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特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」

楽しみにしていた特別展です、金曜日の夕方出かけました。

 

仁和寺と御室派寺院の秘仏や本尊など66体を集める特別展。通常は非公開の傑作の数々に
会える千載一遇の好機と知り楽しみにしていました

 

不動明王座像 広島大聖院の重要文化財

大阪「道明寺」 秘仏ご本尊「十一面観音菩薩立像」
国宝で月に2度の御開帳

国宝 「薬師如来坐像」非公開の秘仏 京都仁和寺
像高12㎝白檀を精緻に彫刻し、金箔で細やかな文様を施してあります

国宝 蒔絵冊子箱 京都「仁和寺」の国宝
極楽の鳥があでやかな文様の美しい箱でした

馬頭観音菩薩坐像 福井「中山寺」のご本尊は秘仏で33年に一度の
ご開帳  重要文化財

秘仏ご本尊「如意輪観音菩薩坐像」 兵庫「神呪寺」(かんのうじ)
年に一度のご開帳

「降三世明王立像」は福井妙通寺 寺外初公開の重要文化財

 

国宝 「孔雀明王像」 京都仁和寺蔵

密教修法の孔雀教法を修する際の本尊画像、貴重な仏画です

 

 

千の手を持つただひとつの観音さまが、江戸時代の出開帳以来初めて東京へお出ましです

 

千手観音信仰は8世紀前半に日本に伝わった。
無限を意味する千本の手が衆生を救済するのです。

 

大阪 葛井寺の秘仏 千手観音菩薩坐像 (国宝)
お厨子に安置されているため、ご開帳の時にも見ることがかなわない、
様々な角度からの千手観音様のお姿を見せていただけました

孔雀の羽のように広がる大小合わせて1041本の手を持ち

大小11のお顔を持ちます

手一つ一つに眼が描かれています

千の手、千の目、11のお顔を持つ現存最古の千手観音像です。

 

西国33所、第5番札所である葛井寺のご本尊で、天平彫刻最高傑作の
一つ、優美な表情、均整の取れた体や衣は、究極の天平美です。

 

 

 

僧侶の修行道場のため通常非公開の仁和寺観音堂内部を、約370年
ぶりの観音堂改修工事を記念して特別再現され、撮影可能エリアとして
大人気でした。

 

観音堂内に実際に安置されている仏像33体

壁画も再現し、一般には触れることのできない堂内の厳かな空気も体感できました。

 

 

真言宗御室派総本山の仁和寺 仁和4年(888)に宇多天皇が創建
全国に約790寺の総本山で、貴重な寺宝が多く伝わります。

 

仁和寺が所蔵する名宝と、御室派寺院の宝物を一堂に集めた展覧会を
ゆっくり見物出来て心休まるひと時でした。

 

国立博物館の開館は午後5時までですが、金曜、土曜日は午後9時まで公開しています。

 

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すみだ北斎美術館

10月にしては記録的な雨が続き、気分転換に大江戸線両国駅「江戸東京博物館」前の
地下鉄出口を出て北斎通りを5分ほど歩いた「すみだ北斎美術館」に出かけました

ちょっと驚いた外観でした、1年前の11月に開館、行きたいと思っていた美術館です

右手に回るとこんな切れ込みのようなふしぎな感じのところがありました

そして正面入り口はこちら、明るい館内です

窓も三角

パフォーマー北斎に興味津々

現代のイベントですがモニター映像で大ダルマの様子が分かりました

 

最後に100倍速で全貌を見ました

江戸と名古屋の北斎の大パフォーマンス

江戸と名古屋を駆ける?

「北斎大画即書引札」

今から200年前の文化14年(1817年)葛飾北斎は名古屋城下の活況を利用しつつ、
自身の「北斎漫画」宣伝のため、120畳大の紙を使って達磨を描くパフォーマンスを
開催したのだそうです

名古屋にさきがけて江戸でもダルマや布袋や馬など大きな絵、米粒に雀2羽の極小画の
製作したことなども伝えられています。

浮世絵だけでなくパフォーマーとしても活躍した北斎、多くの人が行きかい活気を呈した江戸、
名古屋などの都市でこのようなパフォーマンスが多く行われたそうです。

「パフォーマー北斎」を始めて知り、思いがけない北斎に出会った感じでした。

 

「北斎漫画」十四編 「駱駝」

「北斎漫画」十二編

 

左ページの中央、本を読んでいる男性、こんな姿で北斎が背中に布団をかけて一心に絵を
描く人形が飾られています、時々筆が動いてびっくりしました、傍らに娘お栄(後の応為)が
キセルを持って見守っています。

北斎漫画

 

「百物語 さらやしき」

「新版浮世両国橋夕涼花見見物之図」 大判錦絵

 

 

富嶽三十六景 「神奈川沖浪裏」

「凱風快晴」

「山下白雨」

尾州不二見原

 

最近葛飾北斎の話題をよく耳にします。
アメリカの有名雑誌が選定した「この千年でもっとも重要な功績を残した100人」
日本人として唯一選ばれたのが「葛飾北斎」だったとか。

 

 

美術館は公園内です

この日スカイツリーは上部が雲に隠れていたりでした

公園の一角に生誕地の案内板、この近くだったようです。

葛飾北斎は生涯に30余りの名を名乗り、最初の名前が時太郎、6歳のときから絵を描きだし
北斎の絵との付き合いは84年にもなります。

 

家から遠くない美術館、オープンして1年も出かけなかったのはもったいなかったと
感じた日でした。

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ディズニー・アート展

同世代で小さい頃からデイズニーを楽しんでいた友人のTeiさんと出かけました。

 

1928年ウオルト・ディズニーは

「蒸気船ウイリー」を公開、1枚の絵に命を吹き込む魔法の歴史はここから始まりました。

「ピノキオ」は1940年の作品

描かれている絵が動いて見えるパラパラ漫画、アニメーションのルーツはそんな素朴な
喜びから始まりました。

どんなキャラクターも始めは話すことも動くことも出来ません、しかしピノキオが魔法をかけられ
「いのち」を宿すようにキャラクターたちは数々の魔法により命を吹き込まれ、ある日突然
いきいきと動き出すのです。

「バンビ」は1942年

「ファンタジァ」「ダンボ」「ラテンアメリカの旅」などが1940年代の作品です。
日本で公開されたのはずっと後ですが、いきいきと動く動物たちのしぐさが本当に可愛かった。

 

1950年代に入ると「ふしぎの国のアリス」「わんわん物語」「眠れる森の美女」などの名作を
生み出します。

 

「リトルマーメイド」 1989年

「リトルマーメイド」をきっかけにディズニーアニメーションは2度目の黄金時代をむかえます。

1990年代には「美女と野獣」「ライオンキング」「ポカホンタス」「ムーラン」その他多くの
作品が公開されました。

この頃よりCGをはじめとしたデジタル技術を徐々に取り入れデジタルならではの表現を
追求してゆきます。

 

「アナと雪の女王」 2013年

「ベイマックス」 2014年

ベイマックスの顔は日本の神社で見かけた鈴から生まれたと聞いたのを思い出しました。

「モアナと伝説の海」 2016年

ミッキーマウスの誕生から「モアナと伝説の海」まで約90年分の原画が公開され
そのほとんどが日本初上陸でした。

手書きの原画やスケッチが世の中に公開されることは珍しいことなのです。

 

 

こちらはミュージアムショップ  (写真OKでした)

ダンボも可愛かった、ミッキーマウスは初期の頃とだいぶ顔が変わりました。

こちらも行列で、少しだけ待ちました。

 

私にはディズニーのいちばんの思い出は子供の頃に見た映画、それは夢のよう。
1世紀近い間、世界中の人々に愛さるディズニーは、懐かしさいっぱいでした。

 

 

会場の「日本科学未来館」には始めて行きました。

 

こちらは地球について最新の科学データやツールとともに考えるゾーンのようです

解説とともに地球が映し出されます

美しい色の地球

日本列島が見えました。

1階からの見物でしたが、寝そべって見られるソファーなどもありました。

 

「日本科学未来」こちらではアクティビティーやドームシアターなども楽しめるようです。