「江戸東京博物館」

映画「HOKUSAI」を見てから久しぶりに江戸時代の生活状況など見たくなり久しぶりに
「江戸東京博物館」のホームページを見ていたら来年4月から3年間も改装で休館という
事を知り早速出かけました。

開館したばかりの時間だったので見学者も少なかったのですが、こちらの二人は外国人で
取材のようでした、まず日本橋から出発のようでした。

「寛永の町人地」江戸初期、日本橋北詰付近の町人地です。「寛永の大名屋敷」松平忠昌の
上屋敷とほぼ同じ面積を復元したもの、敷地が広く多くの建物が建っていた大名屋敷に比べ
町人の家は一戸が極めて狭かった。

でも楽しそうな様子がうかがえます

 

「寛永の大名屋敷」 江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平伊予守忠昌の
上屋敷である。広大な敷地に桃山風の豪壮な建物が建っていたが、明暦の大火により焼失し、
以後このような華麗な大名屋敷は姿を消した。

幕末の江戸城  江戸城の中心部です内堀の囲まれ内郭は本丸。二の丸・西丸・吹上御所
などから構成される

 

「東都高輪風景」 文久3年(1863)3月 東海道を江戸に向けて進む、参勤交代の大名行列を
描いた錦絵。
行列の右手には海が広がり、左手には高輪の丘陵が迫る。現在の品川周辺を描写したもの。
長く続く大名行列が周辺の人々に権威をはなっていた光景を伝える。

「蒔絵女乗り物」 江戸時代中期  蒔絵から酒井家にかかわる女乗り物と思われる。

 

 

こちらは庶民の棟割長屋、長屋はひとつの棟を数戸に区切った住居で仕切りの壁のほとんどが
木と紙からなる木造建築で、火事にもろかった、江戸の約2割に当たる狭い地域に多くの庶民が
部屋を借りて暮らしていた、代表的なものに「九尺二間の裏長屋」がある。
間口九尺(約2,7m)奥行二間(約3,6m)約3坪の広さで、居間は4,5畳あった。

 

復元した棟割長屋は九尺二間の部屋が3戸と間口2間、奥行2間の広さに居間が6畳の部屋が
2戸で、いずれの部屋も、戸口を入ると台所兼用の土間があり、置き竈や水がめが置かれている
部屋には押入れはなく、衣類などは行李(こおり)という入れ物に衣類などを収納し、布団と
一緒に片隅に片づけて生活スペースをあけました。

指物師の部屋

お産の風俗 棒手振り商人の家のお産

洗い張り 洗い張りは着物の縫い目をほどいて洗い、しわを伸ばして乾かすことを言う。
江戸前期には専業の洗い張り屋が登場した。

「寺子屋師匠」 江戸期に普及した、寺院における子弟教育から始まったことから寺子屋の
名称が残ったと考えられる。

「上水井戸の構造」 江戸市中には上水を流す樋が道路下に埋設され水を供給していた。
長屋に設けられた上水井戸を通して人々のもとに届けられた。
上水井戸は、地中で底を抜いた桶をいくつか重ねて水をためておき、必要な時に竹竿の先に
取り付けた小さい桶で汲み上げる仕組みとなっている。

(左手の建物に立てかけてあるのが洗い張りして乾かしている板)

 

「一石橋迷子標」 迷子への対処のため、町人が資金を出し合って
設けたもの。
迷子や捨て子は親が見つかるまでの期間、それを発見した町の負担に
よって教育することが義務づけられていた。
そのためこのような石碑を立て「たずぬる方」には子供を探す親が我子の
特長などを記した札を貼り「しらする方」には迷子を保護した町から情報が貼られた。

 

「俳優見立夏商人 水売り」 水売りは夏季に限った商売で、水を
二つの手桶に入れて、天秤で担いで売り歩く。
売り声は「ひゃっこい、ひゃっこい」である、前の手桶には茶碗や
白玉を入れる屋台が見える。
冷たい水に白玉・白砂糖入りで一杯4文だったが、注文によっては
砂糖を増量して8文、12文で売った。

夜商内六夏選(麦湯売り) 夏の夜に見られた麦湯売りを描く見立絵
麦湯は現在の麦茶と同様のもので、「麦湯」と書かれた行燈を掲げ
屋台を出して売っていた。
冷蔵庫のない時代冷えてはいない、だか、夜風にあたりながら麦湯を
飲み、また涼しげな浴衣を着た看板娘が目にも涼をもたらした。

「日常の膳」 一、目刺し鰯  一、八杯豆腐  一、白飯  一、沢庵漬
「日用倹約料理仕方角力番付」をもとに作成したもの。

 

寿司屋の屋台 現在の寿司と比べると1貫が大きく赤酢を使用しているのでお米が赤っぽく
なっています、タネは江戸前の魚が多く、酢に浸したものを主に使用した。

 

江戸の町では店を構えず、町中での屋台で営業する商人も多く見られました。
扱う品物も食べ物・飲み物・日用品・嗜好品など多種多様でした。(二八そば屋)

 

「絵草紙屋」 「東海道名所図会」に描かれた和泉屋市兵衛の店(甘泉堂)をもとに
江戸の絵草紙屋の店先を復元した。
和泉屋市兵衛が店を構えていた芝神明前三島町(港区芝大門1丁目付近)は東海道の脇にあたり、
地本問屋が集中する区域のひとつであったが、出店時期は不明である。

「世の中五用心」 江戸の暮らす庶民が、日常生活で心がけておくべき
事柄として「身の用心」「戸締りの用心」「日の用心」「あつささむさの
用心」「おしり(お尻)の用心」の5つを取り上げている狂歌と挿絵を
楽しみつつ、教訓的な内容を学んだが、最後の「お尻」とは物事の最後の
意味で、ここから転じて大晦日の借金の期限のこと意味している。

年貢米を江戸に運ぶ船

 

「三井越後屋江戸本店」 江戸時代の代表的な呉服店で駿河町にあった「三井越後屋」の
店前を再現したもの。
創始者三井高利は伊勢松坂の出身、1673年京都に呉服の仕入れ店を設け、江戸の販売の店を
開いた。
模型で復元したのは「東見世」部分であり、さらに同程度の間口で「本見世」がある、
いかに三井越後屋が大きかったかがわかる。

賑わう店内を見ると、鴨井には手代の名を記した紙が吊るされその下で反物を出し、対面売りを
する手代の様子や湯茶のサービスなどを行っている子供などを見ることができる。

この販売方法は「店前売」といい、客は多くの反物を手に取ってみることができた。
それまでの商法では、商人が得意先に行って商品を渡し、あとで利息を付けた対価を受け取る
後払いであったが、新商法は店頭で現金販売とする代わりに利息をかけない。「現金懸値無し」
というものであった。

「神田明神行列」 神田祭の華やかで壮大な行列のありさまを当時の絵画資料をもとに
代表的な山車や神輿などを抜き出し復元した。

 

「両国橋西詰」 西詰の広小路には軽業や歌舞伎芝居を見せる見世物小屋、髪結い床、水茶屋
などがいくつも立ち並び、寿司、天ぷら、うなぎなどの屋台、西瓜売り、朝顔売り、などの
物売りや大道芸人も多く集まった。

夏の間は花火見物に興じる屋形船、屋根船、猪牙船が浮かびその間を物売りやウロ船や花火船が
行きかった。

天保の改革の取り締まりの記録をもとにして、改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して
再現したものです。

 

「芝居小屋」 歌舞伎は当初屋外で行われたが享保期ごろから客席を含めた全体を大きな屋根で
覆う形式の小屋が許可され、晴雨にかかわらず芝居を楽しむ劇場としての設備が整った。

「助六の舞台」 江戸歌舞伎の代表的な演目を、架空の場面設定で展示した。
助六は1713年に2代目市川團十郎の「助六由縁の江戸桜」の舞台

花魁 揚巻

 

中村座の前でも撮影が行われていました、出演者とカメラマンの二人だけですから
江戸東京博物館の説明だけなのでしょうか。
歩きながら話していましたが、残念ながらどこの国の言葉か分かりませんでした。

 

こちらは3階の出入り口、この屋上広場に休憩所があるのですが、こちらも入れませんでした。

 

この日は入館と同時に友人から電話があり、外出がしにくい日々なので彼女に合わせて
1時間半後にこちらから15分ほどで行ける眼鏡屋さんで落ち合うことにしました。
江戸時代以降のエリアはまたの機会に見物することにしました。

来春からの改装工事は思いがけないことで、開館からもう30年も過ぎるということにも
驚きました。
一時閉館までにまたゆっくり訪れたいと思いつつ江戸東京博物館を後にしました。

 

(7月6日)

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