朱鷺メッセ31階の「ばかうけ展望室」から見えた「新潟市歴史博物館」に、新潟旅行最終日
息子夫婦と出かけました
本館の中に入ると吹き抜けの明るいエントランス
常設展示は新潟の人々の歴史が紹介されています
幅約3,6mに及ぶ白山神社の「大船絵巻」 複製
年貢米の積み込み風景が描かれています、中央部は新潟湊、左上部には大阪が、右上部には
江戸が描かれています
良寛は江戸時代から全国に知られた僧であった、1855年刊行の「東講商人鑑」とい全国の
宿と承認を紹介する本に、新潟柾屋小路の飴屋万蔵の看板が掲載されている。看板の文字が
良寛の書なのである。
新潟を訪れた商人が、この案内書を片手に看板見物に飴屋を訪れたのであろうか。
万蔵が頼み込んで良寛に書いてもらったというこの看板は、今も大切に保管されている。
こちらを見て思い出しました、何年ごろだったか覚えてないのですが、新潟には親鸞聖人の
ゆかりの場所に訪れたことがあり、お寺を巡りました、この旅から戻りいろいろ思い出した
のでもう一度巡ってみたくなりました。
北前船と回船
江戸時代後期から明治時代にかけて、日本海の湊から湊へ貨物を運んで行き来した和船を
北前船と呼んでいます。
北前船という呼び名は、北陸・東北・北海道地方へ向かう船を、近畿や瀬戸内地方で呼んだ
ものである、新潟では北前船も含めて、貨物を運ぶ船を廻船と呼び、そのうち荘内から上越
地方の間を行き来する船は小回しと呼んだようです
新潟の宴会料理の復元だそうです 新潟の食材をふんだんに使った料理、この料理模型は
新潟を訪れた画家長谷川雪旦が描いた「北国一覧」の絵をもとに江戸時代の調理法を推定し
試作を重ねて料理を決め、製作したものです
下駄の歴史 古墳時代から出土例があり、近世には大都市でその種類・数が大きく増加した
江戸の風俗を描いた浮世絵や書物には、様々な形・呼び名の下駄が登場します。
明治の中頃には一般の人々に普及しましたが洋装化と靴の普及により姿を消していきました。
私たち世代に下駄は懐かしいです、七五三のお祝いにはぽっくり下駄をはきました
日本の中国侵略は新潟港を大陸への玄関にして新潟は発展した
新潟奉行所は、江戸時代末期の天保14年(1843)に設置された。長岡藩だった新潟町が幕府
のs直轄地となり、領地を管理するために設置されました。
背景には1835年に発生した抜荷事件への対策、天保の改革の上知令がありました。
土地改良以前は、水の引かない田んぼに太ももまで浸かり、小舟まで使って稲刈りをしました
⁂ミュージアムシアターもあり新潟の歴史や人物、民話を題材にしたオリジナル映像3本上映
しています、上映時間が都合よく「黒島伝説」と「新潟水の記憶」の2本観覧出来ました
伝統的な野菜「寄居かぶ」かぶの形がやや平たいのが特徴、関屋南瓜は模様が特徴で、煮物に
適しているが、甘みの強い西洋カボチャに押され今ではわずかしか作られていない、女池菜は明治の初めに女池で採種されたのが起源で名前もそれに由来する、雪をかぶると旨味を増すと
言われる、赤塚大根、大正の初めから品種が改良され、漬物用の大根として有名になった、
昭和初期には新潟で漬物に加工され、新潟港から北海道や中国北東部へ輸出された、現在は
品種としては絶えている。
日本一の大河「信濃川」に架かる万代橋は、新潟市の発展とともに歩み続け、いつの時代も
街のシンボルとして親しまれてきました
初代万代橋親柱 明治18年(1886)樹種は笠・柱ともけやきで、当時と同じ高さに設置
ばかうけ展望室から眺めた重要文化財現代の万代橋(手前から二本目の橋)美しい橋です
旧新潟税関庁舎 安政5年(1858)の修好通商条約により、神奈川、函館、長崎、兵庫と
並んで開港場のひとつに選ばれた新潟は、明治元年に開港しまし、翌2年に関税業務を行う
役所として、後に新潟税関となる新潟運上所が作られました、庁舎は、港町新潟を象徴する
建物であり、開港当時の姿を今に伝えています、印象に残る建物でした。
内部
晴れていたらこんな景色が見られたかもしれません
早川堀や柳並木など明治から昭和にかけての情緒あふれる港町新潟の景観も再現されています
2階の窓からは信濃川河口、新潟西港が見えます
今回の旅はお天気に恵まれず少し残念でしたが、一日中雨だったのは最終日のみ、一日目は
曇り空、二日目は曇りたまに晴れ間も出て、雨も少し降る変わりやすい日でしたが建物内の
見物が多く傘をさすこともなくすみました。
新潟は広く関東地方の天気予報でも表示されるほど近い場所、出かけた11月末は雨模様で
帰宅後天気予報を気にしてみていると以後ほとんど雨の日(雪交じりの日も)ばかりでした。
新潟は東京からは行きやすいところまた出かけたいと思います。
(11月28日)
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