【添乗員同行】青森ねぶたと東北の遺構を訪ねる旅2024

個性ある夏祭りが、ツアーの夜を彩ります
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「首里城正殿」と「石畳の道」

沖縄首里城は那覇空港から”ゆいレール”(モノレール)で終点の首里駅下車、
始発の那覇空港駅から約30分ほどのところです。

前回の続き首里城の書院、奥書院は新しい建物でした。

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奥書院は国王が執務の合間に休息した場所です。

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政治を行う「表」に対し、居住スペースであるのは「内」の空間です。その境界は
近習詰め所と黄金御殿の間にありました。

表から内へ用事がある場合、近習詰め所の”鈴引”と呼ばれる小座敷で縄を引き、
女官や妃の近くにある鈴を鳴らして合図した。
内から表へ用事がる場合は、内側で縄が引かれ「御茶煮詰」(おちゃにづめ)の
廊下の鈴が鳴らされ、取次役が用件を受けた。

正殿内

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国王が唐衣装で椅子に座り、御庭に並ぶ諸官とともに儀式を執り行った部屋。
(唐破風造り屋根や龍に囲まれた格式ある建物の御庭に面した小部屋です)

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1階は下庫理(しちゃぐい)と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場でありました。

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玉座の前にも一対の龍と柱にも龍、正殿には多くの龍が棲んでいます。

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「御差床」(うさすか)  中央の華麗な部分が「御差座」と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御する
玉座です。 左右には国王の子や孫が着座した「平御差床」がある。

うしろの障子を開くと奥に国王専用の階段がある、国王はこの階段を使って2階から出御します。

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2階は「大庫理」(うふぐい)と呼ばれて、日常的には王妃や身分の高い女官達が
使用した空間であった。2階にも御差床がありました。

3階は通気を目的とした屋根裏部屋です。
正殿内は鮮やかな朱色が美しい格式のあるものでした。

 

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帰路は往路と違う門を出ました。
うえきもん 別名「寄内御門」(よすふぃちうじょう)ともいい、創建は15世紀頃と
伝えられます。

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寒水川樋川(すんがーひーじゃー)  瑞泉門前の龍樋と並んで首里城内の
重要な水源でした。 生活用水のほかに防火用水としても利用されたそうです。

 

首里城を出て前回行かなかった、金城町の石畳道へ行きます。

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首里城を起点とした官道であったが、沖縄戦で大半は破壊され、金城町の
238mの区間が首里城石畳道として残っていている。

この道を行くとき、学校帰りの小学生と一緒になり話を聞いたら「ここは出るよ!」
「何が?」と聞いたら「お化けが」・・・   かなりの急な下り階段に帰り道の方が
怖い気がしました。

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近世以前の石垣も多く残っているそうです。

 

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琉球石灰岩の平石を敷き詰め、何世代もの人々の往来で滑らかになって
いる道は美しく歴史を感ずる道でした。

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沖縄らしい門構えの民家も見られました。

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こちらはNHKのドラマ「ちゅらさん」で自宅外観のモデルになった家だそうです。

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石畳の道を下りましたが、帰り道は全部上り道、少しきつかったです。
往きに気づかなかった石畳の道入口に「日本の道100選」という碑がありました。

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街中でもここ首里城でも見かけたハイビスカス、この季節(1月末)でも
見られて驚きました。

 

首里城の創建は14世紀頃といわれていますが、詳しい事はわかっていません。
その後、1406年に、尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、
最後の国王・尚泰が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の
政治・外交・文化の中心として栄華を誇りました。

首里城には中国や日本、東南アジアなどの交易から様々な文物がもたらされ
琉球独特の文化が花開きました。

1945年の沖縄戦で灰となった首里城は、1992年沖縄本土復帰20周年を
記念して復元されました。

 

 

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